2014年04月改定
人名は敬称略
- 1915(大正4)
- 5月
慶應義塾山岳会を創設(24日創設。29日に三田で創設大会)
三田大学構内のヴィッカースホールに部室 - 7月
夏期登山に3隊(常念山脈に2隊、針ノ木~剱岳に1隊)
- 5月
- 1916(大正5)
- 3月
箱根~山中湖・富士山麓で最初のテント行 - 7月
夏期登山に4隊。槇有恒が上條嘉門次と槍・穂高縦走
- 3月
- 1917(大正6)
- 1月
田口(新潟県)で最初のスキー練習 - 6月
三田の図書館で山岳書籍の展覧会 - 7月
夏期登山に12隊、延べ50名が参加
(剱岳三ノ窓~大窓、南ア三峰~荒川岳~間ノ岳~仙丈を踏破) - 秋
部室がヴィッカースホールから白亜館へ
このころ部歌「山の唄(守れ権現)」(北原白秋作詞、中山晋平作曲)誕生
- 1月
- 1918(大正7)
- この頃慶應義塾山岳会の会員章制定
- 7月
慶應義塾山岳会の旅行部が初めて朝鮮・満州・支那へ - 10月
鹿子木員信がカンチェンジュンガ踏査。黒カブア(4810m)登山
(日本人による先駆的なヒマラヤ登山)
- 1919年(大正8)
- 7月
『登高行』創刊(1号発行) - 9月
体育会に加入。組織の名称を「慶應義塾体育会山岳部」に
- 7月
- 1920年(大正9)
- 3月
白馬岳でスキー登山の試み(大島亮吉ら。雪中露営も実施) - 4月
山岳部長に松本信廣教授(塾の年表による。登高行では1921年指名) - 6月
『登高行』2号発行 - 7月
鹿子木員信『ヒマラヤ行』刊行
- 3月
- 1921(大正10)
- 1月
OB組織「三田登高会」が発足。(後に「登高会」に) - 6月
『登高行』3号発行 - 9月
欧州滞在の槇有恒がアイガー東山稜の初登攀に成功
- 1月
- 1922(大正11)
- 2月
八ヶ岳スキー登山(青木勝ら) - 3月
学習院の仲間と槍ヶ岳登頂(槇有恒ら)。立山と剱岳登頂(三田幸夫ら)
(いずれも積雪期の初登頂) - 8月
穂高岳・涸沢の岩小屋を拠点に岩登り練習(槇有恒ら)
- 2月
- 1923(大正12)
- 7月
槍ヶ岳・小槍登攀(青木勝、佐藤久一朗ら)。槇有恒『山行』刊行
『登高行』4号発行。(「岩登りに就て」「雪崩に就て」など掲載)
- 7月
- 1924(大正13)
- 3-4月
穂高岳スキー登山(大島亮吉ら) (奥穂・北穂・前穂の積雪期初登頂) - 5月
山岳部長が松本信廣教授から瀧本誠一教授に - 7月
前穂高岳北尾根と屏風岩を初登攀(青木勝、佐藤久一朗ら) - 11月
創立10周年記念会(三田の部室で) - 12月
『登高行』5号(10周年記念号)発行
(三田幸夫「涸沢の岩小舎を中心にしての穂高連峰」、大島亮吉「涸沢の岩小屋のある夜のこと」など掲載)
- 3-4月
- 1925(大正14)
- 7月
カナダのアルバータ(3619m)に学習院の仲間と初登頂(槇有恒ら)
(日本最初の海外登山隊で「日本山岳会隊」として遠征) - 12月 『登高行』6号発行
- 7月
- 1926(大正15)
- 1月
剱岳、甲斐駒ケ岳に厳冬期初登頂(大賀道丙、漆山巳年夫ら) - 6月
カムチャッカ・クリュチェフスカヤ偵察計画(内田勇三、槙弘ら)
槇有恒らが秩父宮殿下に随行しアルプス登山
- 1月
- 1927(昭和2)
- 3月
東北・飯豊山大日岳スキー登山(本郷常幸ら)(雪洞利用の試み) - 7月
谷川岳一ノ倉沢など試登(大島亮吉ら。「近くてよい山なり」と記録)
- 3月
- 1928(昭和3)
- 1月
南ア・北岳、間ノ岳、農鳥岳の厳冬期初登頂(國分勘兵衛ら)
前穂高岳北尾根を積雪期初登攀(本郷常幸、齋藤長寿郎ら)
- 1月
- 1929(昭和4)
- 3月
槍ヶ岳の肩~北鎌尾根第1峰を往復 - 7月
『登高行』7号発行
- 3月
- 1930(昭和5)
- 1月
奥穂高~前穂高岳(齋藤長寿郎ら)(奥穂高岳、涸沢岳の厳冬期初登頂) - 3月
大島亮吉遺稿集『山・研究と随想』刊行 - 4月
南ア・仙丈ヶ岳、北岳、農鳥岳などを積雪期初縦走(後藤宗七ら) - 7月
台湾・玉山(新高山)などを登山(後藤宗七、渡邊良太郎ら)
- 1月
- 1931(昭和6)
- 1月
三田幸夫がインド・クルー地方のロータン峠に冬期登山 - 3月
越後・八海山~中ノ岳、灰ノ又岳や槍ヶ岳~奥穂高岳の積雪期初縦走 - 12月
『登高行』8号発行
- 1月
- 1932(昭和7)
- 4月
剱岳八ツ峰上半の積雪期初登攀(金山淳二、谷口現吉) - 7月
槍ヶ岳の北鎌尾根・千丈沢側側稜の登攀。日高ペテガリ岳登頂 - 8月
山岳部長の瀧本誠一教授が死去、後任に三邊金蔵教授
三井松男がカナダ・セルカークの山々に登る
- 4月
- 1933(昭和8)
- 1月
西穂高岳で初めて組織的な高所露営の試み - 3-4月
剱岳で高所露営。八ツ峰、源次郎尾根などを登る(金山淳二ら) - 7月
槍ヶ岳の北鎌尾根・千丈沢C稜の初登攀(小森宮章正ら)
- 1月
- 1934(昭和9)
- 1月
槍ヶ岳(大喰岳)で高所露営。北鎌尾根独標を往復 - 3月
南ア・間ノ岳、北岳~赤石岳を天幕使用で縦走
『登高会会報』1号発行 - 4月
北穂高岳で高所露営 - 7月
槍ヶ岳の千丈沢側稜登攀。D稜の初登攀など
- 1月
- 1935(昭和10)
- 1月
奥穂高岳で高所露営。ジャンダルム往復など - 3-4月
剱岳で高所露営。源次郎尾根、八ツ峰など登攀 - 6月
創立20周年記念会(京橋・中央亭)
登高会の歌「旧き友よ」(早川義郎作詞)発表 - 7月
剱岳八ツ峰6峰Cフェース慶応ルート初登攀(小森宮章正ら)
大島亮吉遺稿集『先蹤者』刊行 - 10月
予科のルームが日吉・体育会事務所内に - 12月
『登高行』9号発行。(谷口現吉ら「積雪期に於ける高所露営」掲載)
1月にかけて早月尾根~剱岳(極地法)(谷口現吉、小森宮章正ら)
(厳冬期の八ツ峰をめざしたが、悪天候で撤退)
- 1月
- 1936(昭和11)
- 3-4月
剱岳早月尾根で極地法。頂上付近で初の雪洞露営の試み - 4月
新学期初めに部員募集(従来は夏山・スキー合宿を利用して募集) - 5月
医学部・三四会山岳部と合体 - 7月
穂高岳・涸沢で合宿(夏山合宿の始まり。部員全般の向上を図る)
山岳部有志翻訳の「ウム・デン・カンチ」抄訳刊行 - 11月
『登高行』10号発行(高所露営、雪洞の研究を掲載) - 12月
翌年1月にかけて再び早月尾根~剱岳。厳冬期の八ツ峰をねらう
このころ関西在住の登高会員が「関西登高会」を結成し親睦を深める
- 3-4月
- 1937(昭和12)
- 3月
北穂高岳で露営。滝谷の各尾根を登る - 12月
『登高行』11号発行
1月にかけて西穂高~奥穂高岳を極地法登山。雪洞を利用
- 3月
- 1938(昭和13)
- 3月
剱岳チンネなど登攀。平蔵コル~大窓へ縦走し馬場島へ - 8月
台湾の中央尖山、南湖大山、次高山に登る - 12月
前穂高北尾根8峰側稜(慶應尾根)~奥穂高岳を極地法登山
- 3月
- 1939(昭和14)
- 3月
『登高行』12号発行。(「前線よりの手紙」掲載)
雪洞利用で立山から槍ヶ岳、槍ヶ岳から烏帽子岳へ縦走 - 6月
部室が白亜館から体育館内へ移転 - 8月
朝鮮の山々の登山 - 12月
剱岳早月尾根~八ツ峰、源次郎尾根を完登(山本雄一郎ら)
- 3月
- 1940(昭和15)
- このころ名古屋在住の登高会員が「東海登高会」を結成し親睦
- 11月
創立25周年記念会(京橋・中央亭)
- 1941(昭和16)
- 5月
『登高行』13号発行。(雪洞露営の報告掲載)
登高会会報7号発行(戦前・戦中の最後の会報に) - 7月
国家総動員法発令、文部省の夏山登山中止命令 - 12月
太平洋戦争が勃発
- 5月
- 1942(昭和17)
- 5月
山岳部長が三邊金蔵教授から厨川文夫教授に - 12月
槍ヶ岳を北鎌尾根末端から極地法登山(加藤喜一郎ら)(積雪期初登)
- 5月
- 1943(昭和18)
- 秋に学徒出陣。11月の富士山で壮行山行。部員は下級生だけに
- 1944(昭和19)
- 戦局悪化のため、山行は4~5月の富士山、八ヶ岳へ3回のみ。休部状態へ
- 3-4月
空襲に備え三田部室の道具や図書をリヤカーで日吉に移す - 10-11月
日吉に移した道具や図書を牛車で日本橋の國分商店倉庫へ
- 1945(昭和20)
- 2月
発行目前の『登高行』14号が戦火のため印刷不能に - 8月
終戦 - 9月
三田で3部員が再会。勉強会「木曜会」を中心に部活動を再開 - 11月
丹沢でテント行(戦後初の山行)
山岳部長が厨川文夫教授から相内武千雄教授に
- 2月
- 1946(昭和21)
- 1月
関温泉スキー合宿。八ヶ岳山行 - 10-12月ごろに創立30周年記念会(日本橋・東洋経済新報社)
登高会員、部員ら73名参加
- 1月
- 1947(昭和22)
- 1月
北穂高岳の最低コルで雪洞生活。滝谷、奥穂高直登稜など登攀
- 1月
- 1949(昭和24)
- 12月
創立以来の恩師・鹿子木員信元教授が死去
- 12月
- 1950(昭和25)
- 3月
南ア・北岳~聖岳縦走(田中慧一郎ら)。 - 11月
『登高行』14号発行(残っていた紙型で実現) - 12月
西穂高~奥穂高岳を極地法登山
- 3月
- 1952(昭和27)
- 3月
剱岳、槍ヶ岳で高所露営 - 9月
三田の体育会本部完成。内部に新しい部室 - 12月
前穂高岳北尾根を極地法登山
- 3月
- 1953(昭和28)
- 3月
北ア主脈・剱岳~西穂高岳を雪洞利用で縦走(宮下秀樹ら) - 3-7月
日本山岳会の第1次マナスル登山に三田幸夫(隊長)、辰沼廣吉、加藤喜一郎、山田二郎が参加 - 10月
登高会の戦後の会報1号を発行 - 12月
針ノ木岳~前穂高岳を縦走(ナイロン天幕使用)
- 3月
- 1954(昭和29)
- 3-6月
第2次マナスル登山に谷口現吉、辰沼廣吉、加藤喜一郎、山田二郎、松澤幸雄が参加
- 3-6月
- 1955(昭和30)
1-3月ごろに創立40周年記念会 - 1956(昭和31)
- 3-6月
第3次マナスル登山に槇有恒(隊長)、辰沼廣吉、加藤喜一郎が参加。加藤は第2次登頂に成功。槇が文化功労者に
- 3-6月
- 1957(昭和32)
- 3月
『登高行』15号発行(宮下秀樹「雪洞報告」掲載) - 12月
笠ヶ岳~奥穂高岳を極地法登山(一力英夫ら)
- 3月
- 1959(昭和34)
- 3-6月
日本山岳会のヒマルチュリ登山に田辺壽が参加 - 4月
山岳部長が相内武千雄教授から峯村光郎教授に
日吉に体育館が竣工し内部に部室 - 8-12月
ダウラギリ2峰・ヒマルチュリに偵察隊(加藤喜一郎隊長)
ヒマルチュリ西面に登路発見
- 3-6月
- 1960(昭和35)
- 3-6月
慶應義塾100周年記念ヒマルチュリ登山隊(山田二郎隊長)が初登頂に成功(5月24日に田辺壽、原田雅弘、25日に宮下秀樹、中沢公正) - 10月
平塚泰一郎のご遺族寄贈による吾妻山荘が開荘
- 3-6月
- 1964(昭和39)
- 11月
創立50周年記念会(産経国際ホール)
『登高行』16号(ヒマルチュリ特集)発行
- 11月
- 1965(昭和40)
- 11月
吾妻山荘が焼失
- 11月
- 1966(昭和41)
- 5-8月
磯弥須彦が日本山岳会学生部アラスカ登山隊に参加
ハンターやフォーレイカーなどの山々に登頂
- 5-8月
- 1967(昭和42)
- 9-11月
学生のニュージーランド・アスパイアリング゙登山(佐竹尚郎隊長)
- 9-11月
- 1969(昭和44)
- 9-11月
日本山岳会エヴェレスト南壁偵察隊に宮下秀樹(隊長)、田辺壽が参加 - 10月
吾妻山荘が再建され開荘式
- 9-11月
- 1970(昭和45)
- 2-6月
日本山岳会エヴェレスト登山隊に成田潔思、竪野正三が参加 - 3-5月
ネパール・バウダ゙峰に学生・OB登山隊(磯弥須彦隊長) - 4月24日
板矢晏男OBが滑落死、5月3日小林由幸、柴田清康が初登頂
- 2-6月
- 1971(昭和46)
- 6-7月
パンジャブ゙・ヒマラヤのメントーサに学生・OB登山隊(竹村眞隊長)
- 6-7月
- 1972(昭和47)
- 4月
山岳部長が峯村光郎教授から内山正熊教授に - 12月
槍ヶ岳北鎌尾根~北穂高岳縦走
- 4月
- 1973(昭和48)
- 12月
創立60周年記念講演会(三田演説館で峯村光郎、西堀栄三郎)
- 12月
- 1974(昭和49)
- 4月
創立60周年記念会(京王プラザホテル) - 7月
『登高行』17号発行
- 4月
- 1976(昭和51)
- 11月
60周年記念のヒマラヤ遠足。國分幹事長ら登高会の20名が参加
- 11月
- 1979(昭和54)
- 4月
山岳部長が内山正熊教授から島崎隆夫教授に
- 4月
- 1980(昭和55)
- 3-5月
日本山岳会チョモランマ登山隊に宮下秀樹が参加(北壁隊隊長)
(北壁からの初登頂に成功)
このころから部員の減少が顕著に
- 3-5月
- 1982(昭和57)
- 4月
山岳部長が島崎隆夫教授から堀江湛教授に
- 4月
- 1983(昭和58)
- 3-6月
ネパールのチャマールに創立70周年記念登山隊(宮代良治隊長)。
このころから「岩壁登攀」への積極的な取り組み
- 3-6月
- 1984(昭和59)
- 11月
創立70周年記念会(銀座交詢社) - 12月
明神Ⅴ峰~前穂高岳~奥穂高岳~涸沢岳西稜を縦走
- 11月
- 1985(昭和60)
- 12月
年間目標に「冬期の岩壁」を掲げ、屏風岩東壁を登攀
日本山岳会学生部の中国カカサイジモンカ登山に岩永治朗が参加
- 12月
- 1987(昭和62)
『登高行』1~17号全巻の復刻版出版- 2-3月
日本山岳会学生部のクスムカングル登山に小川博史が参加
- 2-3月
- 1989(平成1)
モンブラン登山を皮切りに、この年以降OBの海外登山・登攀が盛んに - 1991(平成3)
- 9月
日本山岳会の日中合同ナムチャバルワ登山に山田二郎(日本側総隊長)、井原敦(読売新聞特派員)が参加
- 9月
- 1992(平成4)
- 9月
前年に続くナムチャバルワ登山に山田二郎、井原敦が参加(登山隊は初登頂に成功)
濱田豪がヨセミテ登攀、冬期の黒部丸山東壁単独登攀
- 9月
- 1994(平成6)
- 6月
日本山岳会マッキンリー気象観測機器設置登山隊に互井健悟が参加 - 7-10月
カラコルムのグレート・トランゴ・タワーに創立80周年記念登攀隊(渡辺朋幸隊長)。支援トレッキング隊(宮下秀樹ら8名)がBCへ - 11月
『登高行』18号発行。山岳部創立80周年記念会(三田・北新館)
- 6月
- 1995(平成7)
- 6月
日本山岳会マッキンリー登山隊に川添敦、上濱篤男が参加 - 8月
カザフスタンのカルリー・タウに大橋基光、神戸常雄、横山忠雄
(創立80周年記念山行。西稜から登頂)
- 6月
- 1996(平成8)
- 1月
北岳バットレス4尾根主稜登攀 - 8月
森上和哲、小野寺賢治がヨセミテ登攀
豊田順介が日本300名山登山を達成
- 1月
- 1997(平成9)
- 4月
山岳部長が堀江湛教授から宮下啓三教授に - 6月
日本山岳会マッキンリー登山隊に榎並祐史が参加
- 4月
- 1998(平成10)
- 3月
ネパールのカラパタールに石川雅也ら高校山岳部が登山 - 10月
日本山岳会学生部のブータン無名峰登山に榎並祐史が参加
- 3月
- 1999(平成11)
- 5月
奥秩父・小川山でスポーツクライミングを取り入れた初の新人合宿 - 6月
吾妻山荘に太陽光発電装置
- 5月
- 2000(平成12)
山岳部に「クライミングチーム」が発足- 8月
日・カナダ合同アルバータ初登頂75周年記念登山に森上和哲が参加。学習院OBらとの記念トレッキングに登高会員7名が参加
- 8月
- 2001(平成13)
- 2月
学生のネパール合宿(トレッキング)に岩永治朗、山本剛史、安藤豪
- 2月
- 2002(平成14)
- 4月
山岳部長が宮下啓三教授から高木勇夫教授に
「横断山脈研究会」中村保らのチベット探査に河西瑛一郎が参加
(このあと河西、新谷忠男が同会の踏査に重ねて参加)
- 4月
- 2004(平成16)
- 5-6月
チベット・カルション(6674m)に偵察隊(原田雅弘隊長) - 9月
チベット・カルションに偵察隊(八鍬貞悦隊長)
- 5-6月
- 2005(平成17)
- 2月
ニュージーランドでクライミング合宿(武田達弥、金辺久義) - 3月
創立90周年を記念しシッキムへ登高会員8名がトレッキング行 - 4月
創立90周年記念会(三田・北新館)
山岳部長が高木勇夫教授から福井弘道教授に - 9月
チベット・カルションに創立90周年記念登山(八鍬貞悦隊長)
28日に河西瑛一郎、新谷忠男が初登頂
米国ヨセミテで金辺久義ら6名がクライミング合宿
- 2月
- 2006(平成18)
- 9月
米国ブラックマウンテンで木林宏之ら6名がクライミング合宿
- 9月
- 2007(平成19)
福井教授のネパール氷河湖調査に藤原将大、木林宏之、稲垣純一 - 2008(平成20)
- 6月
カナダ・スコーミッシュで武田達弥、木村友輔がクライミング - 8月
日中韓学生交流登山(韓国)に森上和哲OB(コーチ)、木村友輔が参加
米国ヨセミテで木村友輔ら6名がクライミング合宿 - 10月
吾妻山荘で All Keio Alpine Festival を初めて開催
- 6月
- 2009(平成21)
- 10月
福井弘道教授のブータン氷河湖調査に三神庸平が参加
- 10月
- 2011(平成23)
- 4月
山岳部長が福井弘道教授から長田進・準教授(2012年教授)に - 2-3月
米国カリフォルニア州ビショップでボルダリング合宿(磯貝悟志、山本桂太朗)
- 4月
- 2012(平成24)
- 2-3月
ネパールのバーデン・パウエル登山に長島昌木ら - 8-9月
カナダ・スコーミッシュで磯貝悟志ら5名がクライミング合宿
- 2-3月
- 2013(平成25)
- 8-10月
中国四川省横断山脈・四姑娘山群で創立100周年記念の登攀(3隊)
4未踏峰の初登頂や老鷹岩上下岩壁の継続登攀などに成功
(各隊リーダー=森上和哲、小野寺賢治、濱田豪)
- 8-10月